『ザ・ブラフ ブラッディ・メアリーの戦い』を観た。観終わった直後、私はしばらくソファから動けなかった。動けなかった理由が「感動」なのか「消化不良」なのか、正直に言うと、自分でもまだ整理がついていない。
静寂と暴力のあいだで息を止めた
冒頭の数分間で、この映画は私を完全に掴んだ。プリヤンカー・チョープラー・ジョナス演じる主人公が、島の朝の光の中で子どもの髪を梳かしている。その手つきの穏やかさ。けれどその手がかつて何をしてきたのか、観客にはまだ知らされない。ただ、彼女の目だけが違う。穏やかな生活をしている人間の目ではなく、何かを常に警戒している動物の目をしている。あの目の演技だけで、私は「この人には過去がある」と確信した。
海賊船の船長が島に現れてからの展開は、体感としてはあっという間だった。復讐の動機が徐々に明かされていく構成は、スリラーとしての引力が強い。カール・アーバンが演じる敵の船長が、ただの悪役に留まらない陰影を持っていたのも大きい。彼には彼の「正義」がある。それが歪んでいるとしても、本人にとっては筋が通っている。その不気味さに何度か背筋が冷えた。
アクションシーンでは、プリヤンカーの身体の使い方に目を奪われた。華麗というよりも、泥臭い。生き延びるために身につけた技術が、彼女の体に染みついている感じがちゃんと出ていた。ここだけの話、中盤の乱闘シーンでは思わず息を止めていた自分がいて、終わったあとに「あ、呼吸してなかった」と気づくほどだった。
それでも引っかかる「脚本の歯車」
ところが、没入している自分の隣で、もうひとりの自分が腕を組んでいた。
主人公が過去を封印して静かに暮らしているという設定自体は、もう何十本と観てきた。元殺し屋、元スパイ、元兵士。平穏な日常が壊され、封印した力を解放する。この物語の「型」そのものが悪いわけではない。問題は、その型をどれだけ裏切れるかだ。この作品は、残念ながら型の内側に収まったまま終わってしまった場面が少なくない。
特に気になったのは、家族との関係の描き方だ。夫との会話、子どもとの触れ合い、そのどれもが「守るべき大切なもの」の記号として機能してはいるけれど、記号以上のものになっていない瞬間がある。家族が「人間」ではなく「動機」になってしまっている。もう少し日常の手触り――些細な口喧嘩とか、食卓でこぼれる笑いとか――があれば、後半の緊迫感はもっと刺さったはずだ。
テムエラ・モリソンやイスマエル・クルス・コルドバといった脇を固める俳優たちは、与えられた役割を的確にこなしている。ただ、脚本がもう一歩彼らに踏み込む余白を与えていれば、群像劇としての厚みが出たのにと惜しまれる。
「血塗られた過去」とは誰のものか
それでも、この映画が私の中に残した問いがある。
主人公は過去の自分を「怪物」として封じ込めていた。けれど家族を守るためにその怪物を解放したとき、彼女は救われたのか、それとも再び呪われたのか。映画はその問いに明確な答えを出さない。暴力によって愛する者を守った人間は、その暴力をもう一度しまい込めるのか。あるいは、一度開いた扉は二度と閉じないのか。
ここに、私はこの作品がただの海賊アクションに留まらない核を感じた。恥ずかしいけれど、自分自身の中にもある「封じた感情」のことを考えてしまった。スケールはまるで違うけれど、誰にでも「開けたくない引き出し」はある。その引き出しを開けざるを得ない瞬間が来たとき、人はどうなるのか。プリヤンカーの最後の表情が、答えではなく問いのまま残されていたことに、私は映画としての誠実さを感じた。
まとめにならないまとめ
『ザ・ブラフ ブラッディ・メアリーの戦い』は、完璧な映画ではない。脚本の既視感、キャラクターの掘り下げ不足、中盤のテンポの緩み。減点ポイントを挙げればいくつも出てくる。それでも、プリヤンカー・チョープラー・ジョナスという俳優の身体性と眼差しがこの映画を引き上げている。彼女がスクリーンにいる間は、確かにそこに「生きている人間」がいた。
観る人を選ぶ映画だとは思う。でも私は、あの最後の表情をしばらく忘れられそうにない。
体感点数:64点

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