『テッド ザ・シリーズ』が描くのは、ぬいぐるみの話じゃない。”普通になれない奴”の青春だ

テッド ザ・シリーズ ドラマ・TV感想
© The Movie Database (TMDb)

『テッド ザ・シリーズ(ted)』をようやく全話観終えた。観終えたのに、なんだかまだジョンの部屋にいるような気分が抜けない。あのちょっと散らかった部屋で、テッドと隣り合って座って、くだらない冗談を言い合いながらも、ふとした瞬間にお互いの孤独を感じ取ってしまう——あの空気感がずっと肌に残っている。

下品さの奥にある、やけに正直な温度

正直に言うと、私はセス・マクファーレンの笑いがそこまで得意ではなかった。映画版の『テッド』も観ていたけれど、下ネタやドラッグネタの密度に「ちょっとお腹いっぱいだな」と思う瞬間が何度かあった。だから今回のシリーズ版も、しばらく手を出さずにいた。

観始めて最初の数話、予想通りの下品さが飛んでくる。テッドの口は相変わらず最悪だし、性的なジョークは遠慮なく連発される。けれど、ある瞬間に気づいた。このドラマ、笑わせにきている場面と、笑わせないまま放置する場面のコントラストが異様にうまい。テッドがジョンに軽口を叩く場面はテンポよく畳み掛けてくるのに、ジョンが学校で居場所を見つけられずに黙り込む場面では、カメラがじっと引いたままになる。そこに音楽もかぶせない。あの沈黙に、私は不意打ちを食らった。

1993年のボストンという舞台設定も効いている。スマホもSNSもない時代だから、人と人との距離感が物理的で、逃げ場がない。ジョンが誰かに傷つけられても、家に帰ってスクリーンの向こうに逃避することはできない。テッドだけが、唯一の「こちら側」の存在なのだ。

ジョンという少年の、痛々しいほどの”普通への渇望”

16歳のジョンを演じるマックス・バークホルダーの芝居が、観ていてつらいほど良かった。恥ずかしいけど、何度か目が潤んだ。彼は特別なことをしない。ヒーローにもならないし、劇的な成長もしない。ただ、普通の高校生として扱われたいだけなのだ。でも隣にはしゃべるぬいぐるみがいる。かつて世界中の注目を浴びた「あのテッドの持ち主」という肩書きが、もう誰も気にしていないのに、本人だけがその残像に縛られている。

ここで私の中の「分析モード」が起動してしまう。このドラマ、明らかに”かつてバズった人間のその後”を描いている。一瞬だけ世間に消費されて、飽きられて、何者でもない自分に戻される。2024年に配信されるコンテンツが1993年を舞台にしながら、SNS時代の一発屋問題を寓話として語っている構造は、狙っているなと感じた。狙っているのだけれど、それを嫌味に感じさせないのは、脚本がジョンの感情を一度もバカにしていないからだと思う。

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テッドは”友達”なのか、”依存”なのか

観ていて一番考え込んだのは、テッドとジョンの関係の本質だった。二人は親友で、家族で、唯一の理解者同士。美しい関係に見える。でも同時に、テッドがいる限りジョンは「普通」にはなれない。テッドと一緒にいることが安全地帯であると同時に、社会との壁にもなっている。

これは友情の話であると同時に、依存の話だ。私たちにも覚えがある。一緒にいると安心するけれど、その安心が自分の世界を狭めていると薄々気づいている関係。手放すのが怖いから、笑い話にして誤魔化す。テッドの下品なジョークは、そういう誤魔化しの装置としても機能している。

いとこのブレアの存在がここで効いてくる。彼女はテッドのことを特別扱いしない。しゃべるぬいぐるみという異常さにいちいち驚かず、対等に接する。その態度が、ジョンに「テッドがいる人生を恥じなくていい」という無言のメッセージになっている。脚本がブレアに託したこの役割は、シリーズ全体の中で静かに、でも確実に物語の背骨になっていた。

笑って、黙って、また笑う。その繰り返しの中に人生がある

このドラマは、爆笑と沈黙を交互に投げてくる。その緩急が人生のリズムに似ている。私たちは日常の中で、くだらないことで笑った直後にふと寂しくなったりする。あの感覚をこんなに正確に再現したコメディドラマを、私はあまり知らない。

セス・マクファーレンは結局、人間が好きなのだと思う。CGのぬいぐるみの口を借りて、ひどいことを言わせながら、その裏側でずっと「お前はひとりじゃない」と言い続けている。それがわかってしまったから、私はこのシリーズを観終えた後もジョンの部屋から出られずにいる。

体感点数:81点

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