『私がビーバーになる時(Hoppers)』を観た。劇場を出てからもう何時間も経つのに、まだビーバーの尻尾の感触が自分の体にあるような気がしている。おかしな話だけれど、本当にそうなのだから仕方ない。
ビーバーの毛皮をまとった瞬間、涙腺が壊れた
メイベルがビーバー型ロボットに意識を”ホップ”させる瞬間、画面の色彩がガラッと変わる。人間の世界ではやや彩度を抑えた日常の色だったものが、動物の知覚を通した途端、水面の光がエメラルドに弾け、木の幹が赤銅色に脈打ち始める。ピクサーがここ数年磨き続けてきた「主観で世界の見え方を変える」演出の到達点みたいなシーンだった。
正直に言うと、私はメイベルが初めて動物たちの言葉を聞き取れた場面で泣いた。彼女が発した第一声が「聞こえる……聞こえてる!」ではなく、ただ黙ってビーバーの前歯で木をかじり、その振動が相手に意味として伝わっていくという描写だったからだ。言語ではなく、身体の行為がコミュニケーションになる。あの沈黙の数秒間に、ピクサーの矜持を見た気がする。
パイパー・カーダの声の演技もすばらしい。ビーバーの体に入ったメイベルの興奮と戸惑いが、声色の微妙な揺れだけで伝わってくる。ボビー・モイニハン演じる相棒のリスとのかけ合いは笑えるのに、どこか寂しさが漂っていて、この温度感は子ども向けアニメーションの枠を軽々と越えていた。
「ご都合主義」と「寓話」の境界線で揺れる
ただ、もうひとりの自分——観ながら冷静に構造を追ってしまう自分——は、中盤で引っかかった。動物たちが企てている「人間の世界を揺るがす計画」の全貌が明かされるシーンだ。あの計画、設定としては面白いのに、動物たちがそこまで高度な組織行動を取れる理由づけがやや弱い。ダニエル・チョン監督は『ぼくらベアベアーズ』で動物キャラクターの社会性を絶妙に描いてきた人だから、もう少し踏み込めたのではないかと思ってしまう。
終盤、メイベルが人間と動物の両方の世界を救う鍵を握る展開も、正直「ここでその能力が目覚めるのか」という唐突さは否めなかった。けれど、観終わって反芻しているうちに、あれは「ご都合主義」ではなく「寓話の文法」なのだと思い直した。この作品は最初からリアリズムを志向していない。意識をロボットに飛ばすという設定自体が寓話の宣言であり、だからこそ物語の解決も寓話的であっていい。私がそこに一瞬引っかかったのは、ピクサーの映像があまりにもリアルで、寓話であることを忘れさせるほどだったからだ。これは欠点というより、作品が持つ二面性の副作用なのだろう。
「誰かの皮を被る」ことの倫理を、子どもに問いかける勇気
この映画が本当に描きたかったのは、動物と話す楽しさではない。「他者の身体を借りるとはどういうことか」という問いだ。
メイベルはビーバーの体で動物の世界に入り込み、友情を築き、信頼を得る。しかし彼女は人間だ。その事実が露呈したとき、動物たちの表情——特にジョン・ハムが声を当てたオオカミの長老の、静かな失望の顔——が胸に刺さった。恥ずかしいけれど、あのシーンでは二度目の涙が出た。
「善意であっても、相手の姿を借りて入り込むことは侵入ではないのか」。この問いを、ファミリー映画として、説教くさくならずに提示したことに私は心から敬意を払う。メイベルが最後に出した答えは明快だったけれど、安易ではなかった。彼女はビーバーの皮を脱いでから、改めて自分の言葉で動物たちに向き合う。そのとき彼女の声は震えていて、パイパー・カーダはあの震えひとつで物語のテーマを完結させた。
これは子どもが観る映画だ。でも「異文化理解」「共感と搾取の境界」「善意の暴力性」というテーマを、ビーバーの尻尾でダムを叩く愉快なアクションの裏側に忍ばせている。子どもはまずビーバーの冒険を楽しみ、大人は帰り道に黙り込む。そういう二層構造こそ、ピクサーが最も輝く瞬間だと私は信じている。
ダムを作るビーバーのように、この映画は小さな木の枝を一本ずつ積み上げて、気づいたら巨大な感情の流れをせき止めている。観終わったあとに決壊するそれを、私はまだうまく処理できずにいる。
体感点数:84点


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