Netflixの実写版『ONE PIECE』を全話観た。観終わったあと、しばらくソファから動けなかった。感動とか興奮とか、そういう単純な感情ではない。もっと複雑な、自分でもうまく整理できない何かが胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
あの「東の海」が、目の前に広がった瞬間
正直に言うと、再生ボタンを押す前の私は完全に身構えていた。ONE PIECEは私にとって、漫画という枠を超えた存在だ。子どもの頃から読み続けてきた物語を、ハリウッドが実写にする。過去にどれだけの日本漫画の実写化が屍を晒してきたか、嫌でも思い出す。期待ではなく、ほとんど「見届ける覚悟」に近い気持ちだった。
それが、イニャキ・ゴドイがルフィとして画面に現れた瞬間、私の警戒心はあっけなく崩れた。この人、ルフィだ。似ているとか、再現度が高いとか、そういう次元の話ではなく、あの底抜けの明るさと、ふとした瞬間に見せる芯の強さが、ちゃんと一人の人間の身体を通して立ち上がっている。ゴムゴムの実の能力による戦闘シーンよりも、彼が仲間に向ける笑顔のほうがずっと「ルフィ」だった。恥ずかしいけど、バラティエのくだりでは少し泣いた。
「違う」と「これでいい」のあいだで揺れる
ただ、没入しながらも冷静な自分は黙っていなかった。ナミの過去の描き方、ウソップのキャラクターの膨らませ方、ゾロと新田真剣佑の殺陣——ひとつひとつに「原作ではこうだったのに」という声が頭の中で鳴り続ける。特に気になったのは、物語の圧縮によって削ぎ落とされた「間」の問題だ。原作が何話もかけて積み上げた感情の重なりが、実写では1エピソードのなかで畳まれる。頭ではわかっている、8話という尺でイーストブルー編をまとめるにはこうするしかないと。でも、あの「間」にこそ宿っていた情感が薄まった場面があったのも事実だ。
一方で、原作にはなかったガープとルフィの関係の掘り下げには唸った。ここは実写版が独自に踏み込んだ領域で、ルフィが海賊になる意味、自由を求めることの代償が、肉親との対立という形で鮮やかに浮き彫りになる。漫画では長い連載のなかで少しずつ明かされてきたガープの存在感を、最初からドラマの軸に据えた判断は大胆だったし、結果的に物語に重力を与えていた。
「自由」を描くことの不自由さについて
観ながらずっと考えていたのは、ルフィが求める「自由」とは何なのかということだ。原作を長年読んできた私たちは、その答えをなんとなく知っている気になっている。海賊王になること、冒険すること、仲間と笑い合うこと。でもこの実写版は、自由の裏側にある孤独や痛みを、生身の役者の表情を通じて突きつけてくる。アニメや漫画の絵では抽象化されていた「傷」が、人間の肌の上に刻まれると、途端にリアリティが増す。ゾロが斬られれば血が出る。ナミが泣けば、その涙は本物の水滴として頬を伝う。当たり前のことなのに、それが持つ力の大きさに私は少したじろいだ。
そして気づいた。この作品は「原作の再現」を目指していない。原作という巨大な海図を手にしながら、まったく別の船で同じ航路を辿ろうとしている。その船の造りに文句を言うことはできる。帆の形が違う、舵の位置がおかしいと。でも、向かっている先は同じなのだ。「人はなぜ自由を求めるのか」「仲間とは何か」という、尾田栄一郎が四半世紀以上問い続けてきた問いに、別の角度から光を当てようとしている。
原作への愛は、呪いにもなる
ここだけの話、私はこの作品を観て、自分のなかの「原作厨」と初めて正面から向き合った気がする。好きだからこそ許せない、好きだからこそ変えてほしくない。その気持ちは本物だ。けれど同時に、好きなものが新しい形で誰かに届くことを拒む権利は、私にはない。イニャキ・ゴドイのルフィを見て目を輝かせる海外の視聴者がいる。その人たちにとっての「ONE PIECE体験」は、私の原体験とは違うけれど、偽物ではない。
完璧ではなかった。CGの粗さが目につく場面もあったし、脚本の都合で性格が微妙にぶれたキャラクターもいた。でも、この作品には確かに「魂」があった。作り手たちが原作を愛し、同時に実写というメディアで何ができるかを真剣に考え抜いた痕跡が、画面のあちこちに残っていた。それを感じ取れただけで、私にとってこのドラマは観る価値があった。
体感点数:79点


コメント