ミッキー17 ― ポン・ジュノが英語圏でまだ「階級の骨」を掘り続けているという話

映画レビュー

『パラサイト 半地下の家族』のあとでポン・ジュノが撮る英語圏作品を観るとき、私はいつも作家性の翻訳ロスを先に心配してしまう。『スノーピアサー』と『オクジャ』は、両方とも面白いのに、どこか韓国で撮られた彼の作品とは温度が違う気がした。ユーモアの角度がずれている、と言えばいいだろうか。笑いの前提になる社会認識が英語圏の観客に合わせて平たくされているように感じることがあった。

『ミッキー17』を観終えたいま、私は少し安心している。完全な成功ではないが、この作家がまだ「階級の骨」を掘り続けているということが、英語圏の大作のど真ん中で確認できたからだ。この記事ではポン・ジュノの作家論に絞って、彼のキャリア全体の文脈で『ミッキー17』がどこに位置するのかを考えたい。

The Pop Score

Rating based on impact and craft.

8.8

VISION ― 冷たい金属の未来と、70年代SFペーパーバックの質感

『ミッキー17』の美術は、意図的に古風である。舞台となる植民惑星船は、ピカピカのハイテクではなく、鈍い金属の光と配管の剥き出しが目立つ、手触りのある未来空間になっている。この質感は『スノーピアサー』の列車内部に近く、さらにさかのぼれば、1970年代のSFペーパーバックの表紙絵、ジョン・ハリスやクリス・フォスのような作家が描いていた、石油と金属の匂いのする宇宙の感触に直接つながる。

美大で美術史を学んだ視点から言うと、これは単なるレトロフューチャー趣味ではなく、階級映画のための慎重な美術判断である。ピカピカの未来は格差が見えにくい。汚れて古びた未来は、誰がどこで働いているかが一目で分かる。ポン・ジュノは『スノーピアサー』で列車の後方車両と前方車両を水平に比較することで階級を見せた。『ミッキー17』では、船内の労働区画と管理区画を垂直に並べ、配管の走り方と照明の色温度だけで階級の空気を分けてみせる。この美術選択を「作家の一貫性」と呼ばずに何と呼べばいいだろう。

さらに注目したいのは、惑星表面の描写である。植民地の地表はあえて荒涼とした褐色と灰色で統一され、地球的な自然美が徹底的に排除されている。これによって、この星に「移住するに値する未来」が存在しないことが画面から直接伝わってくる。管理層だけが見ている「プロジェクトとしての惑星」と、労働者が経験している「意味のない地面としての惑星」が、色彩設計の段階で分岐している。ポン・ジュノの映画で風景が単なる背景であったことは一度もなく、風景は常に階級の物理的な表現として機能してきた。『ミッキー17』の惑星表面はその最新の事例である。

EXECUTION ― 反復と身体、ポン・ジュノの得意技

ミッキーが何度も死に、何度も印刷され直すという設定は、SF的なアイデアとしては珍しいものではない。『月に囚われた男』も、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』も、近しい発想を扱っている。ポン・ジュノがこの題材を掴んだときに加えた独自のひねりは、反復をパロディにしないことだ。クローンが増えるたびに笑いの一つや二つは起きるが、それは設定の軽さからではなく、身体の重さからにじみ出る笑いである。

『殺人の追憶』で取調室の椅子に縛られた容疑者の身体を粘り強く映したときも、『グエムル』で怪物が橋の下に潜み続けるのを執拗に描いたときも、ポン・ジュノの演出は身体の重さと反復に快楽を見出してきた。『ミッキー17』もその系譜にある。ロバート・パティンソンが17人目のミッキーを演じるとき、17回目であることの累積疲労を身体でわざと表現している。それを監督が撮り切っている。この粘り気が、この映画の「退屈しない退屈さ」を支えている。

脚本構造にも一つ指摘しておきたい。ミッキーが繰り返し死ぬという設定は、物語を直線的に進行させにくい。ポン・ジュノはこの制約を逆手にとって、回を重ねるごとに前の死に方の記憶が残留し、ミッキーの判断に無意識に影響を与える、という仕掛けを導入している。17人目のミッキーは1人目のミッキーよりも臆病で、ためらいが長く、それでいて死に方が巧くなっている。この変化は台詞では説明されず、パティンソンの演技と編集のリズムだけで伝えられる。台詞に頼らない脚本構造は、ポン・ジュノの全作品に共通する特徴であり、『ミッキー17』でもその原則が守られている。

RESONANCE ― 『パラサイト』の熱狂ほどではない、しかし

私の感情は『パラサイト』を観たときの昂ぶりには届かなかった。これは正直に書いておきたい。あの映画の、地下室から上に伸びる階段の一段一段を登るような、絞り上げられる感情の連打。『ミッキー17』にあれはない。SFの設定が間に挟まる分、観客と登場人物の距離がわずかに広がる。英語圏俳優の身体言語が、韓国社会の湿度を持たない分だけ、階級の切実さが抽象に寄る。これはジャンル選択と言語選択の必然的な副産物である。

ただ、感情が昂ぶらない代わりに、思考が動く映画ではあった。ミッキーが17回目に死んで18回目を待つ休憩のような場面で、私はポン・ジュノが最後に信じているのは何なのだろう、と初めて立ち止まって考えた。それは階級闘争の勝利ではなく、労働者の身体が尊厳を取り戻すことそのものなのではないか。この問いを観客に持たせたこと自体が、この映画の成果だと思う。

パティンソンの演技について補足しておきたい。『バットマン』以降の彼が選ぶ役柄には、身体の疲労を意図的に見せる共通点がある。『ミッキー17』で17人目の身体を演じるとき、彼は最初の10人分を飛ばして、途中から始まった人間の怠惰さと諦めを一度も説明台詞で言わずに身体だけで提示する。ポン・ジュノがこの俳優を選んだ理由がここにある。「身体が語る階級」を撮る作家にとって、パティンソンの身体は言葉なしで疲労を持てるという意味で最適のキャスティングだった。

DEPTH ― 階級の骨を英語で掘るという翻訳作業

ポン・ジュノの作家性の核心は「階級を身体で見せる」ことにある。『殺人の追憶』で刑事と犯人の取り調べを通じて階層が露呈する瞬間、『グエムル』で家族が怪物と役所に同時に追い詰められる構造、『スノーピアサー』の列車車両の水平配置、『パラサイト』の地下・半地下・地上・丘の上の垂直配置。彼は階級を理屈ではなく空間と身体で示してきた。

ここで一つ、キャリア全体の中でのジャンル選択にも触れておきたい。ポン・ジュノは自分の主題を運ぶために毎回異なるジャンルの器を選んでいる。犯罪映画(『殺人の追憶』)、怪獣映画(『グエムル』)、ディストピアSF(『スノーピアサー』)、動物権利映画(『オクジャ』)、社会派スリラー(『パラサイト』)。そしてSFクローン映画(『ミッキー17』)。ジャンルが変わっても主題が変わらない作家を、私たちは「作家主義」と呼ぶ。だが作家主義という言葉が安易に使われすぎている昨今、ポン・ジュノのように本当にジャンルを横断しながら主題を維持し続けている作家は少ない。彼の場合、ジャンル選択は主題の衣替えではなく、主題を別の光で照らすためのレンズの交換である。

『ミッキー17』が英語圏で達成したのは、この方法論を別言語・別ジャンルに移植できるという証明である。英語の台詞になっても、ジャンルがSFになっても、彼は空間と身体で階級を見せる作業をやめていない。『スノーピアサー』『オクジャ』でときどき感じた「韓国的湿度の損失」は、『ミッキー17』では少し回復している。英語のユーモアの型をそのまま使いつつも、笑いの前提に労働者階級への視線が残っている。これは作家が翻訳の試練に適応したということだと思う。

ここに付随して、英語圏と韓国語圏での笑いの温度差についても述べておく。ポン・ジュノの韓国語作品における笑いは、社会的な屈辱と不条理から滲み出るものだった。『殺人の追憶』で刑事が容疑者にハイキックを繰り出す場面、『グエムル』で家族が葬式で泣き崩れるが全員の泣き方が微妙にずれている場面。これらの笑いは、観客が「笑っていいのか」と迷う種類の笑いであり、その迷い自体が社会批評になっている。『ミッキー17』の英語圏での笑いは、この迷いの度合いがやや浅い。英語圏の観客に受け入れやすい温度に調整されている気配はある。だが、完全にハリウッド的な安全圏に落とし込まれてはいない。ポン・ジュノは調整しつつも、笑いの中に居心地の悪さを残すことをやめていない。

IMPRESSION ― 二度目のほうが腑に落ちる

この映画は、公開直後の一度目より、数週間経ってから頭の中で再生する二度目のほうが評価が上がるタイプである。一度目は、ロバート・パティンソンの17人分の演じ分けや、植民惑星のビジュアルに目を奪われているあいだに、階級の骨が通り過ぎていく。二度目(頭の中でもいい)は、その骨組みがどれだけしっかりしていたかを落ち着いて追える。ポン・ジュノの映画はおおむねそういう二段階の受容を要求する。『殺人の追憶』も『グエムル』も、一度目より二度目のほうが真価が見える作家だ。

CLOSING ― ポン・ジュノの続きを見届けたい人へ

『ミッキー17』は、『パラサイト』からの直線的な進化を期待する人には少しずれて見えるかもしれない。だがキャリア全体を見てきた読者にとっては、階級映画作家が英語圏の大作の中でもなお自分の主題を手放していない、という確認として機能する。ポン・ジュノをこれからも追う価値のある作家として確認したい人、『スノーピアサー』や『オクジャ』を評価していた人、そして、SF大作の中に社会批評を探したい人に薦めたい。

最後に付記しておきたいことがある。ポン・ジュノのキャリアを通時的に見ると、初期作品から一貫して「身体の重さ」が演出の核にある。犬を追う『ほえる犬は噛まない』、容疑者の肉体を見つめ続ける『殺人の追憶』、怪物に追い詰められる家族の身体性が物語を駆動する『グエムル 漢江の怪物』、列車内で押し合いながら前進する身体群としての『スノーピアサー』。一貫して彼は、言葉ではなく身体に階級を語らせてきた。『ミッキー17』はこの列に最も新しい一本を加えたという位置付けであり、その連続性を知った上で観ると、この映画の静かな達成は一段鮮明に見えるはずだ。

TEMPERATURE ― ○好意的

温度感は○である。『パラサイト』級の熱狂はないが、期待の内訳(英語圏での作家性の継続性、階級映画としての再現度、SF大作としての筋の通り)に対して、三つとも期待通り、もしくはわずかに上回る水準で応えてくれた。一度観終えたあと、静かに「ああ、この人はまだ自分の鉱脈を掘っている」と確認できる、という種類の好意である。

この記事を書いた人

零(れい)

映画・アニメ・漫画を深く観るための考察ブログ FRAME ZERO の書き手。没入と批評の両立を目指している。感動すると素直に泣くし、演出の粗も気になる。最終的にはいつも人間に興味が行き着く。

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