シェイクスピアの妻として生きるということ――『ハムネット』が突きつける愛の残酷さ

ハムネット 映画レビュー
© The Movie Database (TMDb)

『ハムネット』を観た。観てしまった、という言い方のほうが正確かもしれない。クロエ・ジャオが監督だと知っていたから、どこか構えていたのに、気づいたら画面の前でぼろぼろに泣いていた。観終わってから2日経つ今も、アグネスのことを考えている。

没入という名の溺れ方

正直に言うと、序盤のジェシー・バックリーとポール・メスカルの恋愛描写だけで、すでに心をつかまれていた。16世紀のイングランドの空気をまとった映像の質感、ふたりのあいだに漂う磁力のようなもの、それをクロエ・ジャオは言葉ではなく光と距離感で撮る。会話が少なくても、視線の向き方と沈黙の置き方だけで「この二人は互いを必要としている」と伝えてくるあの演出に、私は最初の30分でもう降参していた。

The Pop Score

Rating based on impact and craft.

8.8

バックリーが演じるアグネスという女性が、とにかく強くて、しなやかで、孤独だった。ウィリアムがロンドンへ旅立ったあと、ひとりで子どもたちを育て、生活を守り、それでも彼を愛し続ける姿。そこに宿る感情の複雑さを、バックリーは台詞ではなく身体で演じていた。背中の丸め方ひとつで、愛と怒りと悲しみが同時に見えた。それが怖いくらい上手くて、私はずっとアグネスとして息をしていた気がする。

冷静な自分が囁き始める声

それでも、私のなかのもうひとりの自分がずっとそこにいた。ウィリアム・シェイクスピアという人物の描き方に、途中から違和感を覚えはじめたのだ。

ポール・メスカルは文句なしに美しい演技をしている。でも脚本レベルの問題として、ウィリアムという人物の内面が、アグネスに比べてあまりにも薄い。彼がなぜロンドンを選んだのか、家族への罪悪感とどう折り合いをつけていたのか、そのあたりの掘り下げが驚くほど少ない。悲劇が起きたあとの彼の変化も、どことなく記号的に見えてしまって、「この人の痛みを信じろと言われても」と感じる場面があった。

これはおそらく意図的な選択だと思う。この作品は徹頭徹尾、アグネスの物語として作られている。だからウィリアムは半ば背景として機能する。その判断はわかる。わかるのだけれど、ふたりの愛の崩壊と再生を描こうとするなら、両方の内面がほしかった。片方の痛みだけが鮮明だと、物語の核心にある「試練を越えた先の絆」が、少し宙に浮いたように見えてしまう。

「ハムネット」という名前が意味すること

この映画が本当に問いかけているのは、愛の持続可能性ではないと、観終わってから気づいた。

子どもを失うということ。その喪失を、男と女がまったく違う形で抱えるということ。アグネスは悲しみを生き続けることで消化しようとし、ウィリアムは作品として昇華することで前に進もうとした。そしてその「昇華」が、ふたりのあいだに新たな亀裂を生む。

ウィリアムが書いた『ハムレット』の主人公の名前がハムネット(息子の名)と同じ発音であることは、歴史的に有名な話だ。この映画はそこに鋭く切り込んで、こう問う。愛する人の死を物語に変えることは、追悼なのか、それとも搾取なのか。芸術家が誰かの悲しみを作品にするとき、その誰かの同意は必要ないのか。

これは2025年の今も刺さる問いだと思う。私たちはSNSで誰かの痛みを消費し、「感動した」と言って次へ進む。その構造と、シェイクスピアが息子の死から『ハムレット』を生んだことは、本質的にどう違うのか。クロエ・ジャオはその問いに答えを出さない。ただ、アグネスの表情に委ねる。それが誠実だと思った。

引きずって、それでいい

映画として完璧かと言われると、正直迷う。構成の重心がアグネスに傾きすぎていること、後半の展開に少し駆け足な印象があること、気になる点はある。でも、こうして2日後も考え続けているということは、この映画が私のなかで何かを動かしたということだ。

アグネスのような女性が、歴史の中に無数にいたはずだという事実が、今もずっと胸に引っかかっている。有名な夫の「妻」として記録され、あるいは記録すらされず、それでも確かに生きていた人たちのこと。『ハムネット』はその透明な存在たちに輪郭を与えようとした映画で、それだけでもう、観てよかったと思う。

Blu-rayやデジタル配信でじっくり見直したい一作。

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体感点数:81点

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作品情報:The Movie Database (TMDb)

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