SAKAMOTO DAYS 実写 ― 目黒蓮が背負った「誇張表現の現実化」という構造的な難題

SAKAMOTO DAYSの実写映画を観に行くまで、私は何度か自分に言い聞かせる必要があった。期待しすぎない、でも見捨てたくない。そういう中途半端な構えで映画館に入ったのは、好きな漫画が実写化されるときの私のほぼ毎回の状態である。今回もまったく同じ入場券の切り方だった。

結論から言えば、この映画は愛情のある破綻である。原作の魅力をわかっている人たちが作っていることは画面から伝わってくる。しかし、漫画という表現形式が持つ「誇張の生物学」を実写の身体性に翻訳するというタスクの難しさに、この映画は最終的に負けている。この記事では、物語やアクションの出来不出来ではなく、翻案という構造問題の角度からだけ『SAKAMOTO DAYS』実写を読み直したい。

The Pop Score

Rating based on impact and craft.

8.8

VISION ― ビジュアルが「原作に似せる」だけで止まっている

実写版『SAKAMOTO DAYS』の美術は、原作の絵面に忠実であろうとすることから逃げていない。コンビニの陳列、坂本商店の内装、料理シーンの湯気の立ち方。このあたりのディテール再現度は高い。美術スタッフが原作を何度も読み込んで、参考画像をスチルで貼り込んでから詰めたのだろうということが画面から伝わる。

問題はその先にある。原作の絵の魅力は、ディテール再現ではなく、誇張の呼吸にある。鈴木祐斗の線はギャグパートでは徹底的に省略し、アクションパートでは逆にパースを歪めて運動量を稼ぐ。ページをめくるたびに線のテンションが切り替わる。その呼吸が原作を原作たらしめていた。実写版はディテールに忠実である分、この呼吸を拾いそこねている。画面が「原作の写真」として固まってしまい、ページをめくる快楽が伝わってこない。

美術史的な比喩で言えば、これはチラシや宣材写真としては機能するが、動画としては静止している。アルフォンス・ミュシャの線の躍動を、写真のセットで再現しようとしたときに起きる失敗に近い。元の線が持っていた運動のエネルギーが、物理空間に移された瞬間に重力に負ける。

EXECUTION ― 体型ギャグという最大の壁

SAKAMOTO DAYSのギャグの核は、元伝説の殺し屋が太ったままアクションをこなす、という体型のギャップにある。ここが決定的に難しい。実写化にあたり、プロダクションは大きく3つの選択肢を持っていた。①特殊メイクと補正で目黒蓮の体型を寄せる、②CGで戦闘時にシルエットを変形させる、③「太っている」設定そのものを緩めて解釈する。

実写版は③を選んだ。坂本の体型は原作ほど誇張されておらず、「かつては殺し屋だったが現在は少しだけ落ち着いた体型の中年男性」に置き換えられている。この判断自体は合理的である。目黒蓮に無理な補正を掛ければキャラクターの生気が失われるし、CGで戦闘時だけ変形させれば視覚的な統一感が壊れる。しかし合理的な判断を積み重ねた結果、原作のギャグのほぼすべてが軟化してしまう。太っているからこそ成立していたアクションの笑い、太った身体が素早く動くことへの驚き、坂本の戦闘時と日常時の身体の距離感。この3つが同時に失われる。

脚本側はこのギャップを言葉で埋めようとしている。妻の花や子供のハナが「お父さん、いつも強いね」と言う場面を加え、強さと日常のギャップを台詞で説明する。漫画では絵で一発で済んでいたことを、実写では台詞を足して説明しなければならない。これは翻案作業の典型的な負けパターンで、説明の台詞が増えるほど、原作のテンポは削れていく。

加えて、原作の戦闘シーンで重要な「コマの省略」が実写では再現できていない。漫画には「あえてコマを飛ばす」という省略の技法がある。1コマ前まで坂本が立っていた場所に次のコマでは敵が倒れている。この省略が坂本の異常な速さを表現する。実写はカメラの連続性によって、どうしても「動きを見せる」方向に引っ張られる。省略が利かない以上、速さは別の映像的手法(スローモーション、残像処理、衝撃波エフェクト)で代替される。しかしそれらは漫画の省略が持っていた読者参加型の快楽とは質的に異なるものだ。読者が脳内で補完する余白が、映像では埋められてしまう。この差が、アクションシーンの根本的な温度差を生んでいる。

RESONANCE ― 好きになりたかった瞬間と、そうならなかった瞬間

私が本当に好きになりたかったのは、坂本商店の日常シーンだった。ここは実写版のいちばんの功労区だと思う。コンビニに来る常連客、花とのやり取り、シンの登場場面。地味なシーンほど実写は強くなる、という逆説がここには働いていた。日常シーンでは実写の物理性が味方になる。棚に並んだ商品の存在感、レジを打つ指の動き、客が出入りするドアベルの音。こうした細部が漫画にはない厚みを日常に加えている。特に、坂本が棚卸しをしながら振り返って客と会話する長回しのワンシーンは、目黒蓮の芝居が素直にいい。日常を演じる身体としての彼は、この映画でもっとも説得力がある。

だからこそ、アクションシーンに切り替わった瞬間の違和感が痛い。殺し屋モードの坂本が走り出す、その最初のカットで、私の中の期待のテンションと画面のテンションのあいだに空気が漏れるような感覚があった。これは目黒蓮の責任ではなくて、翻案の構造的な問題である。アクションを実写で撮ろうとすればするほど、それはリアリズム寄りになり、原作の「誇張のリアリズム」から遠ざかる。この場では好きになりたかった。なれなかった。それがこの映画との付き合い方の核心である。

DEPTH ― 翻案とは何を残し、何を捨てるかの倫理

漫画の実写化という作業は、技術的な翻訳作業ではなく、倫理的な選別作業である。原作から何を残し、何を捨て、何を別の表現で補うか。ここに作り手の美学が現れる。『SAKAMOTO DAYS』実写は、捨てたものと残したものの配分が、原作ファンの感覚から見て少しずれている。ギャグよりもシリアスを、体型ギャップよりも家族ドラマを、線の運動よりも光量を、それぞれ選択している。それ自体は間違いではないが、残された部分では原作を原作たらしめていた何かを復元できない。

さらに言えば、翻案の倫理にはもう一つの次元がある。それはファンベースに対する誠実さの問題だ。Snow Manのファンと原作漫画のファンは、この映画に求めるものが根本的に異なる。前者は目黒蓮の新たな役柄表現を求め、後者は原作の呼吸の忠実な再現を求める。この二つの期待は構造的に両立しにくい。制作側はこの板挟みの中で、どちらの期待にも100%応えることはできない。その覚悟を持った上でどこに着地させるかが、翻案の倫理である。この映画は目黒蓮の芝居の方に着地した。その判断自体は誠実だが、原作ファンの失望は構造的に避けられない。

これは個別の失敗ではなく、日本の漫画実写化全般が抱えている構造問題でもある。『賭ケグルイ』実写は目の誇張を特殊メイクで再現しようとして独自のテンションを出した。『銀魂』実写は初手からパロディの自己ツッコミで漫画的呼吸を再現した。『SAKAMOTO DAYS』は正攻法を選んだことで、むしろいちばん困難な道に入った。丁寧に作っているのに、丁寧さがそのまま敗因になる。この皮肉が、翻案作業の倫理の難しさを示している。

翻案研究の文脈で一つ補足する。漫画から実写への翻案において、最も翻訳が困難なのは「テンポ」である。コマ割りの速度は読者の読速度と連動しており、読者が自分の速度で体験するものだ。映画の時間は監督が決定しており、観客には制御権がない。この時間の主権の移動が、ギャグのテンポを根本から変えてしまう。『SAKAMOTO DAYS』実写のギャグが滑って見える場面があるとすれば、それは脚本の問題以前に、時間の主権が読者から監督に移動したことの構造的な帰結である。

IMPRESSION ― 一度目より二度目のほうが落ち着いて観られる

観終えた直後の私は、期待との乖離への失望が強く残っていた。数日経ってから、もう一度冷静に思い返すと、印象が少し変わる。日常シーンの強度、目黒蓮が坂本という男の疲れた優しさを演じる説得力、花やシンを取り巻く画の丁寧さ。これらは時間が経つほど好ましく見えてくる。この映画は最初の衝撃で評価するとマイナスに振れるが、後日の思い返しではプラスに少しずつ戻ってくる。翻案作品としてはなかなか珍しい余韻の曲線である。

それでも、もう一度アクションだけ抜き出して観たいとは私は思わない。日常だけを30分に編集した特別版があるなら、そちらは喜んで観直したい。そういう映画である。

翻案作品の余韻には独特のパターンがある。原作を知らずに観た場合は「面白かった」で完結しやすく、原作を愛して観た場合は「原作を読み返したくなった」で着地する。『SAKAMOTO DAYS』実写は明確に後者のタイプで、これは結果として原作の販促機能を果たしている。制作陣が意図したのかどうかはわからないが、翻案の最良のケースが「原作を超える」ことだとしたら、次善のケースは「原作を読み返させる」ことかもしれない。そういう意味ではこの映画は決して無駄にはなっていない。

ただし、翻案評価の文脈では一つ注意を添えたい。ジャンプ原作の実写映画は、単独作としてだけでなく、同時期に公開される他のジャンプ実写との相対的な文脈でも測られてしまう。たとえば同月にアニメ版の劇場作品が強い出来で公開された場合、実写版は比較の直撃を受ける。『SAKAMOTO DAYS』はアニメ版の評価が高いタイミングでの実写化であり、この相対的な文脈からは逃れられない。その点も含めて、△という温度感は私にとって正直な位置である。

CLOSING ― 誰に薦めるか、そして誰に薦めないか

『SAKAMOTO DAYS』実写は、原作未読のまま目黒蓮の芝居を観たい人にとっては、思ったより誠実な作品に映るはずだ。彼の日常芝居の強度を知りたい人には強く薦められる。一方で、原作のギャグのテンポや誇張のリアリズムを愛している読者にとっては、観終わったあとに原作を読み返したくなる種類の映画である。原作を読み返すきっかけとしての実写化、という意味では、これも翻案の一つの役割ではある。とりわけ、映画を観たあとに原作第1巻を開いたときの、コマ割りのスピード感と省略の鮮やかさへの再認識は、実写版が意図せず提供した逆説的なサービスだった。映画があることで、逆に原作の強みがクリアに見えるようになる。

TEMPERATURE ― △複雑

温度感は△である。期待の内訳は、原作既読者としての期待(誇張の呼吸を実写でどう解くか)、Snow Man主演作としての期待(目黒蓮の芝居の幅)、ジャンプ原作実写の直近の水準(賭ケグルイや銀魂が更新した基準)の3点であり、そのうち目黒蓮の芝居の幅だけが期待通り、残り2つは期待との乖離が大きい。この複雑さを一語でまとめるなら、好きになりたかった、という言い方がいちばん近い。

この記事を書いた人

零(れい)

映画・アニメ・漫画を深く観るための考察ブログ FRAME ZERO の書き手。没入と批評の両立を目指している。感動すると素直に泣くし、演出の粗も気になる。最終的にはいつも人間に興味が行き着く。

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