『呪術廻戦』を観た。正確に言えば、観続けている。放送が始まった2020年の秋から、気づけばこの作品のことをずっと考えている自分がいる。最初はただの話題作チェックだった。友人に「今期これがすごい」と言われて、ふうん、くらいの温度で再生ボタンを押した。第1話のラスト、虎杖悠仁が宿儺の指を飲み込むあの瞬間、画面の前で息を止めていた。それが始まりだった。
没入せずにいられない「肉体」の説得力
このアニメの戦闘シーンが凄まじいことは、もう語り尽くされている。MAPPAの作画は確かに圧倒的だし、五条悟の領域展開で視覚がバグるような感覚になるのも事実。でも私が引きずられたのは、もっと手前の部分だった。虎杖悠仁という人間の「身体性」だ。彼は呪術の才能があったわけじゃない。ただ異常に身体が強かった。走るのが速い、殴れば効く、というあまりにもプリミティブな強さ。呪力の理屈を知る前に、まず拳で殴りにいく。その泥臭さが、画面越しにこちらの体温まで上げてくる。
恥ずかしいけど、虎杖が初めて本気で怒って戦うシーンで、私は拳を握りしめていた。アニメを観てそんな反応をする自分に驚いた。彼の怒りには理屈がない。大切な人を失ったから殴る。そのシンプルさが、かえってこちらの感情の深いところを揺さぶる。
「呪い」という設定への引っかかり
ただ、没入している自分のすぐ隣で、冷めた目をしたもうひとりの私が囁いてくる。この作品の「呪い」という概念設計、実はかなり都合よく伸び縮みしていないか、と。人間の負の感情が呪いになるという根幹の設定は美しい。だが物語が進むにつれ、呪力の応用範囲がどんどん広がり、術式のルールが複雑化し、バトルの勝敗が「どちらがより特殊なルールを持っているか」の情報戦に変わっていく瞬間がある。そこで一瞬、物語から弾き出される感覚がある。正直に言うと、「これは週刊連載の宿命なのか、それとも意図的な設計なのか」という問いが頭をよぎる。
五条悟というキャラクターもそうだ。最強であることがあまりに明確すぎて、彼がいる限り緊張感の設計が難しくなる。だから物語は彼を退場させる方向に動く。その構造的な必然は理解できる。理解できるからこそ、「ああ、物語の都合が見えてしまったな」という冷めた感覚と、「でもその退場の仕方が胸に刺さる」という感情が同時に襲ってきて、自分の中がぐちゃぐちゃになる。
「正しい死」とは何か——虎杖悠仁の孤独について
結局、私がこの作品から離れられない理由は、キャッチコピーにある「正しい死」という言葉に尽きる。虎杖悠仁は祖父の遺言「お前は大勢に囲まれて死ね」を胸に抱いて戦場に立つ。でも彼の周りから人は次々にいなくなる。守りたかった人が死に、信じたかった人が敵になり、それでも彼は「正しく死にたい」と願い続ける。
これは呪術バトルの皮を被った、ひとりの少年の実存の物語だと私は思っている。「正しい死」を求めるということは、裏を返せば「正しい生」がわからないということだ。虎杖は自分が生きている意味を、誰かの死を通じてしか確認できない。その構造があまりに痛ましくて、観ていて何度も胸が詰まった。
呪いは人間の負の感情から生まれる。つまりこの世界では、人が苦しむ限り呪いは消えない。それは現実の私たちの社会と何が違うのだろう。憎悪や嫉妬や恐怖が形を持って襲いかかってくるこの世界は、目に見えないだけで私たちが生きている世界そのものだ。
まとめにならないまとめ
『呪術廻戦』は完璧な作品ではない。パワーシステムの肥大化や、キャラクターが増えすぎることによる感情移入先の分散、展開の速度と情報量のバランスなど、気になる点はある。でもそれを差し引いても、虎杖悠仁という少年がひとりで背負い続けるものの重さが、私の中に残り続ける。アニメーションとしての爆発力と、人間の根源的な孤独を同時に描こうとする野心。その両方を持っている作品は、そう多くない。
私は今も虎杖悠仁のことを考えている。彼は正しく死ねるのだろうか。いや、その問いの立て方自体が間違っているのかもしれない。正しく死ぬのではなく、正しく生きた結果として迎える死があるだけなのだと、この物語はいつか教えてくれるのだろうか。
体感点数:84点


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