VISION ― パク・チャヌクの画面が常に持っている「整いすぎ」
本稿は監督特集としてパク・チャヌクの作家性を扱う。出発点は2022年の『分かれる決心』(原題:헤어질 결심)に置く。彼の作品を継続的に観てきた観客なら誰もが感じている、ある独特の質感――画面が異常に整っている、過剰なまでに構図が決まっている、色彩が文学的に選ばれている――この質感を、本作を起点に他作品と接続しながら言語化したい。
『分かれる決心』を初めて観たとき、私は冒頭の登山の場面から既に画面の「整いすぎ」に注目していた。岩肌の質感、霧の流れ方、警察官ヘジュンの動作のリズム――それらが過剰なほど美しく組まれている。これはサスペンス映画として観るとやや浮く。普通の刑事ドラマは、もう少し画面に乱雑さを許容する。しかしパク・チャヌクは乱雑さを排除する。彼の画面は常に「整えられたもの」として観客の前に置かれる。
The Pop Score
Rating based on impact and craft.
この整いすぎは、彼の旧作にも一貫してある。『オールド・ボーイ』(2003)の廊下のロングテイクでハンマーを振るうオ・デス、『親切なクムジャさん』(2005)の冒頭の彼女の白いドレス、『お嬢さん』(2016)の屋敷の幾何学的な空間――どれも乱雑さがない。これは美術監督の腕や撮影監督の力量の話ではなく、パク・チャヌクという作家が「画面に置かれるべきものは全て計算されているべき」という強い前提を持っているからだ。
美大で映画美学の授業を受けたとき、フランスのジャン=リュック・ゴダールが「映像とは選択である」と語ったという話を聞いた。パク・チャヌクの場合、その選択が極限まで詰められている。画面の四隅まで意味を持たない領域がない。これは韓国ニューウェーブの中でも、彼の最大の特徴だと言える。
EXECUTION ― 「分かれる決心」の脚本構造が示す作家の成熟
『分かれる決心』の脚本構造は、パク・チャヌクの作家としての成熟を最も明確に示している。本作は刑事ヘジュンと、容疑者である女性ソレの関係を軸にしたサスペンス/メロドラマで、二人が互いを観察し続けるうちに、互いに離れがたくなっていく構造を取る。サスペンスの謎解きと、ロマンスの感情の蓄積が同時並行で進み、最終的にこの二つが分離不可能になる。
注目すべきは、本作の「観察」のモチーフだ。ヘジュンはソレを尾行し、双眼鏡で見つめ、彼女の生活を盗撮する。同時にソレもヘジュンを見ている。映画全体が「見ること」と「見られること」の循環で組み上がっており、観客はそのどちら側にも同時に立たされる。これは『お嬢さん』の双方向的な誘惑構造、『親切なクムジャさん』の自己観察、『JSA』の対峙する者たちの相互観察――こうした旧作のモチーフを、最も洗練された形で継承している。
編集も独自だ。回想と現在の往復が極めて流動的で、しばしば一つのカットの中で時制が入れ替わる。ヘジュンが過去のソレを思い出すとき、その思い出の中のソレが直接画面に登場し、現在のヘジュンと同じフレームに収まる。これは映像言語としての時制操作の最先端であり、観客の頭の中で時間と空間が再編される体験をもたらす。私はこの編集を、阪本順治の『顔』(2000)のラストシーンの記憶と接続させて観た。両作とも、空間の中に時間が折り畳まれている。
RESONANCE ― 『オールド・ボーイ』から『分かれる決心』までの感情の弧
パク・チャヌクの作品を時系列で並べると、感情の温度が徐々に変化しているのが分かる。『JSA』(2000)と『復讐者に憐れみを』(2002)は冷たい復讐譚だ。『オールド・ボーイ』(2003)は怒りの極限を映し、『親切なクムジャさん』(2005)は復讐の後悔を描く。『渇き』(2009)はゴシック的なエロスへの傾斜を見せる。『お嬢さん』(2016)は復讐の構造の中に女性たちの連帯を持ち込み、復讐が解放に変わる瞬間を描いた。そして『分かれる決心』(2022)では、復讐ではなく愛そのものが物語の中心になり、しかもその愛は破壊ではなく潔さで終わる。
この変化は、作家としての成熟と読むこともできるし、時代の変化への作家の応答と読むこともできる。私は両方が同時に成立していると感じる。20代から60代にかけて作家が経験する内的な変化、そして韓国社会・映画産業の変化、さらに国際的な観客との対話の蓄積――これらが彼の感情の温度を徐々に変えていった。『分かれる決心』を観ると、この長い変化の到達点として本作を読みたくなる。
個人的に最も動かされたのは、『分かれる決心』のラストシーンの海辺だ。詳細は伏せるが、ソレが選ぶ行為と、ヘジュンがそれに気づいたときの絶望は、『オールド・ボーイ』のオ・デスの最終的な選択と通底している。両作のラストは、復讐や謎の解明ではなく、人物が自分の選択に対して取る最終的な姿勢を描いている。パク・チャヌクの映画は、最終的に「人物がどう振る舞うか」を見せる映画だ。
DEPTH ― 「整いすぎ」が問うているもの
パク・チャヌクの「整いすぎ」が観客に何を問うているか。それは「映画とは現実の模倣ではなく、現実の整理である」という命題だ。彼の画面は現実そのものではない。現実から雑音を取り除き、構図と色彩で再構築されたものだ。観客はその整理された画面を通じて、現実の中では見えにくい構造――欲望の方向、感情の運動、人と人の引力――を見ることになる。
これはアジア映画の中で、彼を特異な位置に置いている。日本の是枝裕和は乱雑さを保存することで現実を捕まえようとする。台湾のホウ・シャオシェンはロングテイクで時間そのものを差し出す。中国のジャ・ジャンクーは現代史の傷を地理に重ねる。パク・チャヌクは違う。彼は画面を整理することで、現実の中のドラマツルギーを際立たせる。これは演劇に近い感覚であり、彼が韓国の演劇文化の中で育ったことと無関係ではないだろう。
IMPRESSION ― 監督特集として本作を選んだ理由
本稿で『分かれる決心』を出発点に選んだのは、本作がパク・チャヌクの全作品の中で最も「整いすぎ」が成熟した形で現れているからだ。若い頃の作品では、整いすぎの中にまだ過剰さが混在していた。『オールド・ボーイ』のハンマーシーンは整っているが、同時に過剰だ。『分かれる決心』ではその過剰さが消え、整いだけが残っている。これは作家の自制と熟達の表れだ。
長期的には、本作以降のパク・チャヌクが何を撮るかが楽しみになっている。彼が次に進む方向は、整いをさらに研ぎ澄ますか、それとも整いを意図的に崩すかの二択だろう。どちらでも面白い。私はその選択を、次回作で見届けたい。
CLOSING ― パク・チャヌクをどう観るか
パク・チャヌクの作品を初めて観る人には、『オールド・ボーイ』から入ることを勧めない。それは彼の代表作だが、若さの過剰さがあるため、現代の観客には強すぎる。『分かれる決心』から入るほうが、彼の整いの極限から逆算して旧作を読み解ける。本稿はそのための入り口として書いた。彼の作品系列を作家論として観る楽しみは、現代の韓国映画を理解するうえで欠かせない経路の一つだ。
TEMPERATURE ― 温度感
◎ 熱狂
体感点数:93点(『分かれる決心』単体)/作家論として97点
パク・チャヌクの「画面を整理する」作家性が最も成熟した形で現れた到達点。20数年の作品系列を通じて変化してきた感情の温度が、本作で最も穏やかで深い場所に着地した。彼の作品を再見する起点として、最も適切な一作。
この記事を書いた人
零(れい)
映画・アニメ・漫画を深く観るための考察ブログ FRAME ZERO の書き手。没入と批評の両立を目指している。感動すると素直に泣くし、演出の粗も気になる。最終的にはいつも人間に興味が行き着く。


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