『ズートピア2』──あの街の”起源”を暴くことは、私たちの現在地を問い直すことだった

ズートピア2 映画レビュー
© The Movie Database (TMDb)

『ズートピア2』を観た。正確には、観終わってから二時間ほどカフェでぼうっとしていた。コーヒーが冷めたことにも気づかなかった。前作が大好きだった私にとって、この続編は「待ちわびていた再会」であると同時に、「再会したからこそ突きつけられるもの」がある作品だった。

あの二人に、また会えた

冒頭、警察学校を卒業したニックが署に現れるシーンで、もう胸が詰まった。前作のラストで「やるよ」と軽く笑ったあのキツネが、本当に制服を着ている。ジュディの横に並ぶ。たったそれだけのことなのに、私は前作からの時間の重みを一気に背負わされたような感覚になった。

ジュディは相変わらず真っ直ぐで、ニックは相変わらず斜に構えている。でも二人の間に流れる空気は明らかに変わっていて、信頼が深まった分だけ、すれ違ったときの痛みも深い。ヘビのゲイリーが登場してから物語は加速するのだけれど、私が目を離せなかったのは謎解きそのものよりも、ジュディとニックの間に走る小さな亀裂のほうだった。相棒として積み重ねてきた時間があるからこそ、「言わなくてもわかるでしょ」が二人を遠ざける。恥ずかしいけど、あのすれ違いの場面で私は自分の人間関係と重ねてしまって、映画館で少し泣いた。

「ズートピアの起源」を描くことの危うさと誠実さ

ここからは、没入していた私からもう一歩引いた話をする。

正直に言うと、「ズートピア誕生の謎」というテーマを聞いたとき、嫌な予感がした。前作が描いた差別と偏見の寓話は、あの世界の「今」に焦点を当てていたからこそ鋭かった。起源を掘り下げるということは、ともすれば「実はこういう理由がありました」という安易な種明かしに堕す危険がある。ご都合主義的な歴史の後付けほど、物語の説得力を殺すものはない。

ところが、本作はその罠をかなり意識的に避けていた。ズートピアという街がなぜ「肉食動物と草食動物の共存」を理念に掲げたのか。その歴史を紐解く過程で浮かび上がるのは、美しい建国神話ではなく、矛盾と妥協と、それでもなお共に生きようとした動物たちの泥臭い決断だった。キー・ホイ・クァンが声を当てたキャラクターが語る回想シーンの演出は、ディズニーアニメーションの枠内でここまでやるのかと驚くほど抑制的で、子ども向けの明るさと歴史の重さを同居させる手腕に唸った。

ただ、中盤の展開にはやや駆け足な部分がある。ゲイリーの動機が明かされるタイミングが早すぎて、もう少し彼の内面を掘る時間があれば、クライマックスの感情的な衝撃はさらに大きくなっただろうと思う。脚本としては八十点、演出で九十点まで引き上げた、という印象だ。

「一緒にいる」ことの意味を問い直す物語

結局この映画が一番深く刺さったのは、歴史の謎でも事件の真相でもなく、「異なる者同士が一緒にいるとはどういうことか」という問いだった。

ジュディとニックは種族も性格も違う。前作ではその違いを乗り越えて絆を結んだ。でも本作は、絆を結んだ「その先」を描く。違いを認め合ったはずの二人が、それでもぶつかる。信頼しているからこそ裏切られたと感じる。ここだけの話、私はこの構造に、今の社会そのものを見た。多様性を掲げた「その後」に何が起こるのか。理念だけでは乗り越えられない日常の摩擦を、このアニメーションはごまかさずに描いている。

ズートピアの起源に隠されていた真実と、ジュディとニックの関係修復が、物語の終盤で一つに重なる瞬間がある。あの場面で私は、「歴史を知ることは、今ここにいる誰かとの関係を結び直すことなんだ」と感じた。大げさに聞こえるかもしれないけれど、劇場を出たあとに街を歩く自分の目が少しだけ変わっていた。隣を歩く知らない人の存在が、ほんの少しだけ近く感じられた。

おわりに

前作の完成度が高かっただけに、続編には厳しい目を向けていた。その期待を裏切らず、しかし予想とは違う角度から心を揺さぶってきた作品だった。子どもが楽しめるアドベンチャーであり、大人が黙り込む寓話でもある。ディズニーがこの物語を「今」語る意味を、私はしばらく考え続けると思う。

前作をまだ観ていない方、あるいは久しぶりに観返したい方は、ぜひ本作の前に一度あの世界に浸り直してほしい。

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体感点数:84点

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