『ヤング・シャーロック ~オックスフォード事件簿~』を観た。観終わって数時間経つのに、まだ胸のどこかがざわついている。シャーロック・ホームズという、もう語り尽くされたはずのキャラクターに、こんなふうに心を揺さぶられるとは思っていなかった。
あのホームズが、まだ何者でもなかった頃
正直に言うと、最初は身構えていた。ガイ・リッチーのホームズといえば、ロバート・ダウニー・Jr.版の記憶が強い。あのケレン味たっぷりの演出で「若き日のホームズ」をやるのか、と。派手なアクションでごまかすタイプの前日譚なら、もう何度も見てきた。
ところが、第1話の冒頭で空気が変わった。オックスフォードの薄暗い回廊を歩くヒーロー・ファインズ・ティフィンの佇まいが、想像していたものと違う。彼はまだ「シャーロック・ホームズ」ではない。名前だけがそうであって、中身はまだ不安定で、自分の異常な観察力を持て余している青年だ。周囲の人間が些細な嘘をつくたびにそれが見えてしまう。見えてしまうから、人との距離がどんどん開いていく。その孤独の描写が、序盤からじわじわと効いてくる。
恥ずかしいけど、彼が食堂で一人きりで座っているシーンで、少し泣きそうになった。天才だから孤独なのではなく、孤独だったから天才になるしかなかった——そういう逆転の因果が、台詞ではなく画面の余白で語られていた。
ガイ・リッチーの「らしさ」と「らしくなさ」
ガイ・リッチーの演出は健在だ。推理シーンでは時間が止まり、画面が分割され、ホームズの脳内が視覚化される。スローモーションと高速カットの切り替え、独特のリズム感。アクションの設計もさすがで、体を張った格闘シーンには重量感がある。ここは間違いなく「らしい」。
ただ、私が引っかかったのは、その「らしさ」が物語の静かな核心と時折衝突することだ。青年ホームズの内面を丁寧に描こうとする脚本と、派手に魅せたいリッチーの演出欲が、ある場面では噛み合い、ある場面ではぶつかる。たとえば中盤の事件の核心に迫る場面。ホームズが証拠を積み上げていく過程は知的な興奮があるのに、そこに唐突なチェイスシーンが挿入されて、推理の糸が一度途切れる。あの瞬間、没入していた私の中でもう一人の私が「いま走る必要あった?」と呟いた。
それでも、ドラマシリーズという尺の余裕がリッチーに抑制を強いている面もあって、映画版よりもキャラクターの感情に寄り添う時間が長い。これは発見だった。リッチーが「らしくない」ことをやろうとしている——その試み自体に、私は好感を持っている。
人間ホームズを成立させた、周囲の存在
ヒーロー・ファインズ・ティフィンの演技は繊細だ。目の動きだけで「いま何かに気づいた」と伝えられる俳優は少ない。だが、彼一人では「人間ホームズ」は成立しなかったと思う。Dónal Finnが演じる若きワトソン的存在の温かさ、Zine Tsengが見せる知性と反骨心、そしてJoseph Fiennesの底知れない威圧感——この配置が絶妙だった。
特にJoseph Fiennesの存在感は圧倒的で、ここだけの話、彼が画面に映るたびに「この人が本当の敵なのか、味方なのか」と心拍数が上がった。ナターシャ・マケルホーンの母親役も、ただの背景ではない。ホームズがなぜ感情を閉じるようになったのか、その原点が彼女との関係に埋め込まれている。
私がずっと考えているのは、ホームズという人間が「論理の鎧」を纏う前の姿が描かれることの意味だ。私たちはホームズの冷徹さを格好いいと思ってきた。でもこのドラマは、その冷徹さが防衛機制だったと示唆する。傷つくのが怖いから、感情を切り捨てたのではなく、感情を持ったまま、それでも論理を選ばざるを得なかった。その過程が痛い。痛いけれど、だからこそ目が離せない。
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「名探偵の誕生」は、喪失の物語だった
観終わって思うのは、これは成長譚であると同時に喪失の物語だということだ。ホームズが何かを得るたびに、何かを失っている。推理力が研ぎ澄まされるほど、人間関係の柔らかい部分が削られていく。その残酷さを、このドラマは美しい映像の中に忍ばせている。
完璧な作品かと聞かれれば、そうではない。アクションと内省のバランスが崩れる瞬間はあるし、ミステリーとしての伏線回収がやや駆け足に感じるエピソードもあった。けれど、「シャーロック・ホームズ」という記号の内側に血の通った青年を見出そうとした、その志の高さは本物だと思う。
私はしばらく、あの食堂で一人座るホームズの横顔を忘れられないだろう。
体感点数:81点


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