『スカーペッタ』を観た。パトリシア・コーンウェルの原作シリーズは昔から知っていたけれど、映像化されると聞いたとき、正直なところ期待と不安が半々だった。法医学ミステリーの金字塔をドラマという形で語り直すことの難しさを、私はよく知っているつもりだったから。でも第1話の冒頭、バージニアの検屍局にケイ・スカーペッタが静かに戻ってくるシーンで、その不安は別の感情に変わった。胸の底がざわつくような、懐かしい緊張感。死者の声を聴こうとする女性の背中を追いかけて、気がつけば画面の中にいた。
死体は嘘をつかない、けれど人間は嘘をつく
このドラマが巧みなのは、1998年の連続絞殺事件と現在の事件を並行して描く構造にある。過去と現在が交互に映し出されるたびに、スカーペッタという人間の中に堆積してきた時間の重みが浮かび上がる。ニコール・キッドマンが演じるスカーペッタは、検屍台の前では揺るぎない。メスを握る手に迷いはなく、所見を述べる声は淡々としている。けれどふとした瞬間——たとえばベントン・ウェズリーの視線を受けたとき、あるいはマリーノ刑事の粗野な冗談に返事をしないとき——その沈黙の中に途方もない感情が詰まっていることがわかる。私は何度か画面を一時停止して、自分の呼吸を整えた。没入しすぎて酸欠になる、あの感覚。久しぶりだった。
ジェイミー・リー・カーティスの存在感も触れずにはいられない。彼女が演じる役どころの詳細はネタバレになるので控えるが、あのベテランの佇まいが画面に加わるだけで空気の密度が変わる。サイモン・ベイカーのベントンも、知性と危うさの配合が絶妙で、スカーペッタとの関係性に漂う緊張感がただのロマンスに堕さない均衡を保っていた。
「丁寧すぎる」という違和感の正体
ただ、観ながらもうひとりの自分がずっと囁いていた。この演出、丁寧すぎないか、と。
過去パートの映像はわずかにフィルムグレインがかかり、色温度が下げられている。現在パートはクリアで冷たい光。その切り替えが明確すぎて、観客に「ここは過去ですよ」「ここは現在ですよ」と手を引いてくれている。親切だ。親切すぎる。原作が持っていた、読者を突き放すような冷徹さ——死体の描写が続く中で読者自身が「自分は今どこにいるのか」と混乱する、あの感覚——は意図的に薄められている。
脚本にも同じことを感じた。スカーペッタの内面がセリフで説明される場面がいくつかあり、そのたびに私の中の「分析する自分」が腕を組んだ。彼女はもっと黙っている人だ。黙っていて、その沈黙を観客が読み解くことを信じてほしかった。TMDbスコアが5.9という数字に表れている賛否も、おそらくこのあたりに起因しているのだろうと思う。
「何十年越しの既視感」が問いかけるもの
それでも私がこのドラマに引きつけられ続けたのは、物語の核にある問いが深いからだ。何十年も前の事件と酷似した殺人が起きたとき、人は何を感じるか。スカーペッタにとってそれは単なるデジャヴではない。自分が過去に見落としたかもしれない何か、あるいは自分がかつて下した判断の残響が、新たな死体となって目の前に横たわっている。その恐怖は、法医学者としての能力への疑念であると同時に、「自分の人生は何だったのか」という実存的な問いでもある。
過去の自分と向き合うことの残酷さ。私たちは日常の中でもそれを経験する。昔の日記を読み返したとき、若い頃の判断を今の自分が裁いてしまうとき。スカーペッタはそれを、死者の身体を通じてやらなければならない。この設定の重さに、脚本がもう少し耐えきれていたら、このドラマは傑作になっていたかもしれない。
息を止めたまま、まだ待っている
恥ずかしいけれど白状すると、観終わったあと数時間、検屍台の冷たい光が頭から離れなかった。ニコール・キッドマンの、感情を押し殺しているのに目だけが叫んでいるあの表情が、まぶたの裏に焼きついている。作品としての完成度に対する不満はある。演出の手堅さが冒険心を殺している場面もある。でも、スカーペッタという人間の孤独に触れた瞬間の震えは本物だった。
死者の声を聴く仕事を選んだ女性が、自分自身の声にだけは耳を塞いでいる。その矛盾が、このドラマの一番深いところで脈打っている。シーズンが進むにつれて、脚本がその脈動をもっと信じてくれることを、私は祈るような気持ちで待っている。
体感点数:64点


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