『ザ・ピット / ピッツバーグ救急医療室』を観た。正確に言えば、観終わったあと数日間、ずっとこのドラマのことを考えていた。頭の中でロビナヴィッチ医師の横顔がちらつき、あの救急医療室の蛍光灯の色味が消えてくれない。久しぶりにこういう状態になった。
息をするのを忘れる15時間
このドラマの恐ろしいところは、一話ごとに「一時間」がほぼリアルタイムで進行する構造にある。ピッツバーグの救急医療室で起きる15時間を、15話かけて描く。だから視聴者は逃げ場がない。患者が運ばれてくるたびに、こちらの心拍数も勝手に上がる。
ノア・ワイリーが演じるロビナヴィッチ医師を見ながら、私は何度も自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。彼の目の下にある隈、少し震える指先、それでも声だけは落ち着かせて研修医に指示を出すあの佇まい。ワイリーはかつて『ER』でカーター医師を演じた人だ。あれから約30年。同じ救急医療の現場に戻ってきた彼の顔には、フィクションとは思えない疲弊が刻まれている。正直に言うと、第4話あたりで私は泣いた。患者のエピソードではなく、ロビナヴィッチがひとりで廊下に立っている、ただそれだけの場面で。
冷静な自分が気づいてしまうこと
ただ、没入しながらも、もうひとりの私がずっとざわついていた。
このドラマは意図的に「美しい医療」を描かない。患者は理不尽に亡くなるし、正しい判断をしても報われない。そこまではいい。だが、病院経営陣との対立構造がやや類型的に映る瞬間がある。「現場の良心 vs 金勘定の経営者」という図式は、確かに現実の反映ではあるのだけれど、ドラマとしてはもう少し経営側の論理にも厚みがほしかった。Katherine LaNasaが演じる経営サイドのキャラクターにもっと内面の葛藤が描かれていたら、この作品はさらに奥行きを持ったと思う。
それと、リアルタイム進行という構造そのものが、ときに足枷にもなっている。時間に縛られるがゆえに、各エピソードの密度にばらつきが出る。ある回は息もつかせぬ緊張感が持続するのに、別の回はやや間延びする。構造の野心が常に成功しているわけではない、ということは書いておきたい。
それでも私がこのドラマから離れられない理由
けれど、そんな分析をしている自分が小さく思えるほど、このドラマが突きつけてくるものは重い。
ロビナヴィッチ医師は、なぜあの現場に立ち続けるのか。給料のためではない。使命感という言葉では片づけられない、もっと厄介な何かが彼を縛りつけている。研修医たちに厳しく接しながらも、彼らが折れないようにギリギリのところで手を差し伸べる。その姿に、私は「ケアする人間のケアは誰がするのか」という問いを突きつけられた。
このドラマが描いているのは、医療崩壊の告発だけではない。もっと根深いのは、社会がケアの担い手に対してどれほど無関心であるか、ということだ。救急医療室の外にいる私たちは、救急車のサイレンを聞いても自分の夕食のことを考えている。そういう構造的な無関心を、このドラマはリアルタイムの時間感覚を通じて、じわじわと炙り出してくる。
研修医を演じるSupriya GaneshやTaylor Deardenの若い表情が、この重さに別の層を加えている。彼女たちの目には、まだ理想が残っている。その理想が15時間のあいだに少しずつ削られていく過程を見守ることは、どこか自分自身の新人時代の記憶と重なって、胸が詰まった。
傷ついた人を描くドラマに、傷つけられる
恥ずかしいけれど、私はこのドラマを観て以来、近所の病院の前を通るときの気持ちが変わった。フィクションにそこまでの力があるのかと自分でも驚いている。物語は現実を変えない。でも、現実を見る目を変えることがある。『ザ・ピット』はまさにそういう作品だった。
構造の粗さや類型的な対立軸など、気になる点はある。完璧なドラマではない。でも完璧じゃないからこそ、あの救急医療室は本物のにおいがした。整理されすぎた物語より、少し歪んだ現場の手触りを残したこのドラマを、私はずっと覚えているだろう。
体感点数:84点


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