愛という名の呪い――エメラルド・フェネル版『嵐が丘』が描く、救いのない執着の果て

嵐が丘 映画レビュー
© The Movie Database (TMDb)

エメラルド・フェネル監督の『嵐が丘』を観た。観終わって、しばらく部屋の電気をつけられなかった。暗いままソファに沈んで、ヒースクリフとキャサリンのことを考えていた。正確には「考えていた」というより、頭のなかにあの荒野の風景と、ジェイコブ・エロルディの眼差しが居座り続けて、追い払えなかった、という感じに近い。

暗闇に引き込まれるまで

正直に言うと、最初の30分は映像の美しさに完全に持っていかれた。フェネルの画作りは、光と影の使い方が異様に上手い。ヨークシャームーアの荒涼とした風景が、単なる背景ではなく登場人物の内面そのものとして機能していて、あの閉じた世界に気づいたら自分も閉じ込められていた。マーゴット・ロビーが演じるキャサリンは、美しさと残酷さが混在していて、「好きになれないのに目が離せない」という厄介な引力がある。あの感じ、ブロンテの原作を読んだときに感じた不快感と恍惚感の混合物と同じだった。

The Pop Score

Rating based on impact and craft.

8.8

ヒースクリフを演じるジェイコブ・エロルディについては、観る前から「フィジカルは完璧だろうけど、内側の暗さを出せるか」という疑念があった。ところがこれが良い意味で裏切られた。彼の演技の核にあるのは激情ではなく、静けさだった。怒鳴らず、泣かず、ただじっとこちらを見る。その静けさの底に、どれほどの火が燃えているかを想像させる演技で、それがむしろ恐ろしかった。

「これは愛なのか」と立ち止まった瞬間

没入しながらも、もうひとりの私がずっと冷静に囁いていた。この物語、愛として描かれているけど、現代の文脈に置いたとき、これは執着であり支配であり、ほとんど呪いではないかと。フェネルもそれを自覚的に撮っている節がある。キャサリンとヒースクリフの関係を「美しいもの」として差し出しながら、同時に「これを美しいと思う自分を疑え」という視線がカメラの奥に宿っている気がした。

ただ、ここで少し引っかかりも生じた。脚本上の処理として、キャサリンの内面的な葛藤が後半になるにつれて薄くなる。彼女がリントンを選ぶ動機が、原作ほど多層的に描かれておらず、どこかで「美しい顔をした被害者」に収斂してしまう瞬間がある。フェネルが『プロミシング・ヤング・ウーマン』で見せた、女性像の複雑さと攻撃性。あれがこの作品では半分くらいしか機能していないように感じた。もったいない、というのが率直な感想だった。

「魂が同じ」という感覚の恐ろしさ

それでも、私がこの映画から離れられない理由がある。キャサリンが言う「私とヒースクリフは同じ魂だ」という台詞の問題だ。あれは愛の告白として語られるけれど、よく聞くと、相手の他者性を完全に消去する宣言でもある。あなたは私と同じ、だから私はあなたを所有できる。その論理の恐ろしさを、フェネルは画面の中に忍ばせていた。

人はなぜ、他者のなかに自分を見たがるのか。鏡としての恋人を求めるとき、人は孤独から逃れようとしているのか、それとも深めているのか。この映画を観ながら、自分の過去の感情のいくつかを思い出して、少し居心地が悪くなった。恥ずかしいけど、それが映画の力だとも思う。

観て損はしない、と断言できる理由

TMDbのスコアが6.4というのは、おそらく「好きになれなかった」層の反発を含んでいる。それはわかる。この映画は心地よくない。観た後に何かが解決する感じもない。それでも、エメラルド・フェネルが「愛の物語」を撮りながら、愛の暴力性と自己欺瞞を同時に問い続けた姿勢は、安易な感動作が溢れるなかで際立っていた。ホン・チャウの抑制された演技も、物語に落ち着きを与えていて、主要二人の嵐のような関係の「外側」を担保していた。

映像のクオリティを改めて手元に置いて確認したい人は、Blu-rayのリリースを待つ価値が十分にある。

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嵐のような感情を体験したいなら、この冬に観るべき一本だと思う。ただし、傘を持たずに荒野に出る覚悟で。

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体感点数:74点

作品情報:The Movie Database (TMDb)

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