VISION ― 「ジャンプ+」連載という選択が描いたもの
『チェンソーマン』第2部の連載が「少年ジャンプ+」上で続いている。週刊少年ジャンプ本誌で連載された第1部の終了から始まり、現時点でかなりの巻数が積み重ねられた。第1部の苛烈な暴力と感情の振り幅、デンジというキャラクターの破天荒さが世界中の読者を巻き込んだあと、第2部は意図的にその熱量から距離を取って始まった。本誌からウェブ媒体への移行、主人公の三鷹アサ/戦争の悪魔ヨルへの交代、そして舞台が学園にシフトしたこと――これらは単なる場所替えではなく、藤本タツキという作家が「読者と作品の関係そのもの」を再設計しようとした選択として読むべきだ。
第2部の絵作りは第1部から明確に変化している。コマ運びはより静かで、空白の多用、視線の交差、沈黙の場面の連続――これらが物語の基調になっている。第1部が「常に何かが壊れている」漫画だったとすれば、第2部は「何かが壊れる前夜」の漫画だ。アサの教室の机、登校の道、放課後の風景――それらが何度も繰り返し描かれ、その日常の脆さが画面の奥に予感として漂っている。
The Pop Score
Rating based on impact and craft.
美大で漫画分析の授業を受けたとき、藤本タツキの絵について「彼は線で物語る」という評価を聞いた。第2部はその線がより細く、より躊躇しがちになっている。第1部の太く荒々しい線――特にデンジが暴れる場面の運動エネルギー――は影をひそめ、第2部の線は内省的だ。これは作家が意図して選択した表現の変化だと私は読んでいる。
EXECUTION ― 学園ものという選択の意義
第2部が学園を舞台に選んだことは、構造的に大きな決断だ。学園ものは漫画の主流ジャンルの一つで、人物関係の描き分け、日常と非日常の対比、青春期の感情の蓄積――こうした要素を扱うのに適した枠組みだ。藤本タツキはそれをチェンソーマンの世界観に持ち込み、悪魔という超越的な存在と高校生という日常の存在を同居させようとしている。これは『新世紀エヴァンゲリオン』が学園と終末を組み合わせた手法の現代版とも読めるが、藤本の手法はより断片的で、明確な物語の線を見せにくい。
主人公アサの心理描写は丁寧だ。彼女は陰湿ないじめを受け、そこから戦争の悪魔ヨルとの共生を強いられる。アサとヨルの内的対話が物語の主な駆動力になっている。これは第1部のデンジの「外向きの暴走」とは対照的な、内向きの構造だ。読者はアサの内面に長く滞在することになり、その滞在時間が読者によって快適にも息苦しくにも感じられる。
問題は、この内向き構造が物語のテンポに与える影響だ。第1部の魅力の一つは、ページをめくる手が止められないテンポ感、状況が一気に転がっていく勢いだった。第2部はそのテンポを意図的に落としている。これは作家の選択として理解できるが、第1部のテンポを愛した読者にとっては、その判断が「失われたもの」として残る。私もその読者の一人だ。
RESONANCE ― デンジの不在が意味するもの
第2部を読みながら、私は何度もデンジを思い出す。第1部の主人公として、彼はあまりにも強烈なキャラクターだった。生活の貧しさから始まり、悪魔と契約し、社会の底辺から這い上がろうとし、女性に憧れ、食事に執着し、最後まで自分の欲望に正直だった。第2部のアサは、デンジとは対照的な人物として設計されている。学校に通い、友人関係に悩み、社会の中の普通の場所にいる。しかしその「普通」が、デンジの「異常」を読者から奪っているという感覚が、読み進めるうちに濃くなる。
デンジは第2部にも登場する。しかし主役ではない。彼は背景に追いやられ、アサとは別の文脈で描かれる。これは第1部の最後で藤本タツキが提示した結末からの自然な延長ではあるが、読者が第1部から持ち越した感情の引き継ぎ方としては、痛みを伴う。私たちはデンジという人物の続きを見たかった。その続きは、第2部では断片的にしか提供されていない。
個人的に最も期待外れだった点は、第2部のアサとデンジの関係性が、第1部のデンジとパワーやマキマとの関係性と同等の感情の振り幅を持っていないことだ。これは比較する方が酷かもしれないが、第1部のあの感情の到達点を覚えている読者として、私は第2部にもそれを期待した。期待と実体の乖離が、私の温度感を▽に押し下げている。
DEPTH ― 作家が「ファン」と距離を取るという選択
第2部全体を通して感じるのは、藤本タツキが意識的にファンの期待から距離を取ろうとしているということだ。第1部の成功は世界規模で、特にアニメ化以降、ファンダムは爆発的に拡大した。その状況の中で、第2部を「ファンが望むもの」として書くか、「自分が描きたいもの」として書くか、藤本は明らかに後者を選んだ。学園もの、内向きの心理描写、デンジの非主役化――これらはすべて、第1部のファンが期待する展開からは離れた選択だ。
これを批判するのは容易だが、私はもう一つの読み方を提示したい。作家が商業的成功の渦中でファンの期待に従い続けると、作品は徐々に自己模倣に陥る。藤本タツキはその罠を意識的に避けようとしているのだろう。その判断は誠実だ。ただ、その誠実さが第1部から第2部への読者の感情の橋渡しを難しくしているのも事実だ。私は作家の判断を尊重しながら、それでも第1部の続きを読みたかった自分の感情も否定しない。両方が同時に成立する場所に、私の▽は位置している。
IMPRESSION ― 第2部が完結したあとの再評価可能性
本作の評価は、第2部が完結した時点で大きく変わる可能性がある。現時点で読み進めながら感じるのは「期待からの乖離」だが、物語が最終的にどこに着地するかによって、その乖離が「意図された距離」として再評価されるかもしれない。藤本タツキは長期的な構造を意識して書く作家であり、第1部もまた終盤で初期の読み方を覆す展開を見せた。第2部にも同様の可能性はある。
その可能性を信じて、私は連載を追い続けている。第1部の感情を完全に再現してほしいわけではない。むしろ、第2部が独自の到達点を持つことを期待している。現時点ではそこに達していない、というのが私の正直な温度感だ。
CLOSING ― 誰に薦めるか
第1部のファンには、覚悟を持って読み始めることを勧める。第1部の続きを期待して入ると、確実に失望する。第2部を別の作品として、藤本タツキの新しい挑戦として読むなら、得るものはある。漫画というメディアにおける作家性と商業性の関係に興味がある読者にとっては、本作は現代的な事例として興味深い。アサの内面に長く付き合えるかが、本作を完走できるかの分岐点になる。
TEMPERATURE ― 温度感
▽ 失望
体感点数:64点(連載中時点での評価)
第1部の感情の振り幅と運動エネルギーを期待して入った読者にとっては、第2部の内向きの構造とテンポの落差は乖離として強く残る。藤本タツキの作家としての判断は理解できるし尊重もする。しかし期待と実体のギャップは、私の温度感を率直に▽として記録するしかない。完結時点での再評価の余地はある。
この記事を書いた人
零(れい)
映画・アニメ・漫画を深く観るための考察ブログ FRAME ZERO の書き手。没入と批評の両立を目指している。感動すると素直に泣くし、演出の粗も気になる。最終的にはいつも人間に興味が行き着く。


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